<美味しい?>
バレンタイン当日の朝
冷蔵庫を確認して出来ているチョコレートをそれぞれ別の入れ物に仕舞うと小さなリボンで飾りをつけた。
昨日買ったもう片方の香水をふってみる。
少しバニラの様な甘い香りがしたがそれほどしつこい物でもなかった。
メンズの所に並んでいたが女の自分がつけていてもそれほどおかしくない様な気がした。
事務所のドアを開けて中に入る。
律子「おはようございまーす」
普段なら小鳥位しか返事を返せない事務所から今日は違った声が聞こえてきた。
亜美「律っちゃんおはよ〜ん」
真美「律っちゃんおはよ〜ん」
亜美と真美がソファに腰掛けている。
律子「あれぇ?こんなに朝早くから何してるの?」
眉を寄せる律子に向かって亜美と真美が答える。
亜美「今日はバレンタインだよー」
真美「律っちゃんのCMした所とか」
亜美「はるるんとか千早お姉ちゃんとかミキミキとかの」
真美「ファンの人達がくれたチョコとかお菓子を分けてもらうんだ〜♪」
と二人は嬉しそうに語った。
律子「それでこんなに朝早くに起きて待ってるのね…」
やれやれといった感じで律子がバッグをデスクに置く。
亜美「そう!」
真美「そう!」
二人はクルッと1回転してポーズを決める。
亜美「早起きはサイモンの得って言うしね〜ん」
真美「えぇ!なんで真美達が早起きしたのにサイモンさんが得するの〜!」
亜美「そんなの知らないよ〜!」
律子「それを言うなら三文の得でしょ、全く」
律子が辺りを見回すとプロデューサーはまだ出社していないようだった。
亜美「兄ちゃんならまだ来てないよー?」
亜美に見透かされて律子は驚きを隠せなかった。
律子「なんで分かったのよ」
真美「んっふっふ〜。律っちゃん来てからずーっと何かを探してるみたいだったしぃ」
そんなに露骨に探していたのかと思うと少し恥ずかしくなった。
小さく溜息を吐いてバッグの中の小箱を手に取る。
朝からこの調子で上手く渡す事が出来るのか少し心配になった。
しばらくするとプロデューサーが寒そうに手を擦りながら事務所に入って来た。
律子P「おはようございます」
亜美「兄ちゃんおっはよ〜ん」
真美「兄ちゃんおっはよ〜ん」
律子「おはようございますー」
律子の声を聞くとプロデューサーがピクリと立ち止まった。
律子P「あれ?律子今日オフだったよね?」
眉を寄せるプロデューサーに律子はにべも無く答えた。
律子「経理の仕事はありますから」
言い終えると小鳥がお盆にコーヒーを二つ乗せて入って来た。
小鳥「あ、おはようございます」
笑顔で言うと小鳥はコーヒーを律子とプロデューサーのデスクに置いた。
律子P「いつも有難うございます」
小鳥「いいえ、今日はこの後プレゼントを仕分けしたりとかしか仕事が無いので」
律子「あれ?経理の仕事は?」
小鳥「今日は伝票無いみたいだから大丈夫だと思うわ。ごめんね来てもらったのに」
お盆を小脇に抱えて小鳥が申し訳無さそうに軽く手を合わせる。
律子「うーん…本格的にやる事がなくなってしまったわね…」
律子P「ふむ…帰って休むって言うのも有りだけど折角来たんだしお菓子食べて行ったら?律子の分だってどうせ食べきれないんだから」
律子「そんなに来るんですか?」
引きつる律子に対してプロデューサーは笑って答えた。
律子P「多分ね…全部食べたら相当太ると思うけど」
律子「あう…」
律子P「当分お茶菓子には困らなさそうだ」
そう言うとプロデューサーは「ははっ」と笑った。
小鳥「亜美ちゃん真美ちゃん手伝ってくれる?もう幾つか届いてるのよ、食べるのは貰った人達が来てからね」
小鳥が言うと亜美と真美は元気良く返事をして小鳥の後に続いた。
パタンとドアが閉じられると事務所は二人だけになってしまった。
律子P「律子は行かないの?」
律子「朝からお菓子はちょっと…」
律子P「ふ〜ん、そうなんだ。俺は甘党だから平気なんだけどね」
そう言いながらプロデューサーは律子の横を通り過ぎて自分のデスクに着いた。
律子「…(あれ?)」
不思議と今日はいつもの香りがしなかった。
律子「…(私がつけてるから?)」
首を捻っているとプロデューサーはコーヒーを片手にホワイトボードの前に立っていた。
律子はふと気が付いた。
渡すなら誰も居ない今がチャンスなのかも知れない。
そう思った瞬間、耳の先まで火照ってくるのが自分でも確認出来た。
心臓が高鳴ってきて、胸の奥の落ち着かない感じが再び蘇る。
心なしか小箱を持つ手が微かに震えていた。
プロデューサーに視線を移すとそんな律子の気持ちは露も知らず相変わらずホワイトボードに見入っていた。
時折コーヒーを啜る音が聞こえてくる。
律子はギュッと瞳を閉じた。
そして意を決してプロデューサーに声を掛けた。
律子「あ、あの!」
不意に呼びかけられてプロデューサーは眉を上げて近づいてくる。
律子P「ん?どした?」
律子「その…」
思うように言葉が出なかった。
心臓の音が外から聞こえているのかと思う位激しく高鳴っている。
律子「これ…感謝の気持ち、です」
ようやくそれだけ言うと持っていた小箱を差し出した。
恥ずかしさのあまり、真正面からプロデューサーの顔を見る事は出来なかった。
上目遣いに見上げる。
フイッと手の平に乗っていた小箱が持ち上げられる。
律子P「あ、ありがとう。…嬉しいよ」
そう言ってプロデューサーは優しく微笑んだ。
受け取ってもらえたのを確認すると緊張が解けた所為で体中の力が抜ける。
律子P「おわっと」
寸での所でプロデューサーが律子を抱きかかえた。
律子「えっ?」
状況を把握するのに数秒を要した。
律子は顔をプロデューサーの胸に埋める様な形で抱きかかえられていた。
律子P「あぶなっ。折角貰ったのに放り投げる所だったよ…」
安堵の溜息を吐きながらプロデューサーは言った。
背中に回された手やプロデューサーの体温がとても心地の良い暖かさに感じられた。
あまりの心地よさにそのままをプロデューサーに体重を預けてしまいたい衝動に駆られる。
それを頭を振って振り払うとプロデューサーの袖を掴んで立ち上がった。
律子P「あれ?」
プロデューサーが何かに気付いて律子を見つめる。
プロデューサーの鋭い視線が律子を見据えている。
プロデューサーが何かを考えている時に見る物事を全て見透かしてしまいそうな目付きだった。
律子「な、なんですか?」
律子P「律子、香水つけてる?」
さっきは自分しか気付かなかったのにプロデューサーは今になってそんな事を聞き出した。
律子「今日、つけましたけど…」
律子P「さっきは気付かなかったんだけど、もしかして<ブルージーンズ>?ヴェルサーチの」
プロデューサーの問いに律子は少し考えた。
昨日買ったのは<アクアディジオ>と確かにそんな名前の香水だったかもしれない。
律子はコクコクと首を縦に振った。
律子P「気付かないわけだ。同じの使ってるんだ」
ハハハッとプロデューサーは小さく笑った。
律子「同じなんですか?」
律子P「今日は俺も<ブルージーンズ>だよ、気分転換で」
律子「いつもは、<アクアディジオ>…ですよね?」
律子の言葉にプロデューサーは少し驚いた顔を見せた。
律子P「よく分かったねぇ、でも何で?」
律子「いい香りだなと思ったので、後学の為に…」
苦し紛れの言い訳だった。
正直に言ってしまえば好きな人の香りを感じて居たかったと言うこと他ならない。
律子P「そっか、それもちょっと嬉しいね」
律子がしっかり立っているのを確認するとプロデューサーは貰った小箱を開いた。
律子P「ホワイトデーのお返しも考えないとね。一個食べても良いかな?」
律子「あ、はい」
律子の返事を聞くとプロデューサーはトリュフを一つ口に運んだ。
律子はその様子を心配そうに見つめていた。
律子「ど、どうですか?」
律子P「うん、美味しいよ。これってベースは最近流行ってる奴だよね、ストレス解消に効果があるとかって言う」
そう言われて律子は頷いた。
律子「それなら、良かったです…」
その言葉に嘘は無かった。
美味しいと言って貰えたのは予想以上に嬉しかった。
胸の奥が熱くなる感じがした。
律子「じゃ、じゃあ。小鳥さん手伝ってきますねっ!」
そう言い残すと逃げるように事務所を後にした。
脱兎の如く飛び出した律子を見送るとプロデューサーは貰ったチョコに視線を移した。
一つはカラフルにトッピングの施されたトリュフ
そしてもう一つを見てプロデューサーは破顔した。
律子P「うーん…」
リボンを開いて実物を手にとって見る。
固まる前に弄ってしまったのか一箇所だけ律子らしからぬミスが発覚する。
指紋が残っていた。
そしてハートマークのブラックチョコの上にいかにも後から付け加えたようにホワイトチョコで<義理>と書かれていた。
律子P「如何にも手作りなチョコとは言え義理って書かれてる物をどう受け止めるべきだろうか…」
プロデューサーも少し複雑な心境だった。
送られてくる莫大なプレゼントを半分遊びながら仕分けしている亜美真美と律子達が区切りをつけたのは18時を過ぎた頃だった。
ティアラや春香達が戻ってくると送られてきたプレゼントの中身を確認してはおやつをつまんでいた。
食べきれない物、苦手な物を選んでは事務所のお茶菓子として新たに仕分けされていく。
亜美も真美も食べるのに一生懸命になっていた。
律子も戻ってきた面々と談笑を交わしていた。
亜美「律っちゃんのCMの時に貰ったやつだー!」
亜美が嬉しそうに声をあげる。
真美「美味しかったよねー、今回は何か違うのも入ってるよー!」
そして真美も数種類のチョコが入っている事を知り上機嫌な様子だった。
亜美「赤いのおいしー!」
真美「真美はこれ食べてみよーっと」
真美が銀紙をワシャワシャと破る音が聞こえる。
気に止めず千早達と談笑していると突然悲鳴じみた叫び声が聞こえた。
真美「にがーーーーっ!何これ!?」
真美が泣きそうな声で叫んでいた。
亜美「どれどれ?にっがっ!何これ!?」
真美の持ってるチョコレートを齧った亜美も泣きそうな声を上げていた。
亜美「真美どれ開けたのー?」
真美「なんか99って書いてあるやつ」
99と言う言葉が律子の記憶に響いた。
律子「…99?」
律子が振り返って真美の方に視線を移すと箱に金の文字で99%と大きく書かれていた。
律子の記憶には真新しく残っている99%の文字。
プロデューサーのチョコレートの材料に使ったチョコレートである事はパッケージが物語っていた。
律子「真美、ちょっとごめんね」
急いで駆け寄り真美が手にしているチョコを一口大に割り口に放り込む。
一齧りして律子は驚きを隠せなかった。
昨日、トリュフを作る合間、手に付いたチョコを舐めた時にはこんな味はしなかったはずだった。
口の中に広がったのはチョコとは大よそ思えない位、有り得んばかりの苦味だった。
人は得てして先入観で物事を量りがちである。
そしてその予想を裏切る味には嫌悪感しか残らなかった。
律子「っ!」
千早「ちょっと、律子?」
千早の声も届かず律子は事務所に向かって走り出した。
勢い良く事務所のドアを開けるとプロデューサーが驚いた様子で律子を見つめていた。
律子P「どうした?慌てて」
眉を上げるプロデューサーに対して半ば睨む様な形でプロデューサーを見つめた。
律子「私の、私のあげたチョコは?」
怒気の混じった律子の言葉にプロデューサーは済まなそうに答えた。
律子P「ごめん、全部食べた。美味しかったよ」
プロデューサーの言葉に律子は自嘲気味に鼻を鳴らした。
律子「美味しい?あんな物が?」
ただならぬ様子の律子をプロデューサーは静かに見つめていた。
律子P「律子?」
律子は怒気を強めて続けた。
律子「さっき材料に使った物と同じチョコを食べました。少し苦いだけのチョコかと思ってたらと〜んでもない」
そしてまた自嘲気味に笑う。
律子「苦いだけじゃない!甘さなんてこれっぽっちも無かったわ!それを美味しいって…」
言ってる間に声が震えてくるのが自分でも感じ取れた。
律子「おべっかは嫌いだって言いました。嘘は付かないって約束…しました」
悔しさと絶望感が涙と一緒に溢れ出す。
律子「バカ、みたい…。独りで、はしゃいで…。ひと、りで…よろこ…で…」
一度溢れ出した涙は律子の力ではどうにも止める事は出来なくなっていた。
律子「やっぱり、やっぱり…。想わなければ、良かった…。好きになんて、ならなければ良かった!」
そう言い放つと律子は事務所を飛び出した。